リリース
日本の🇯🇵のゴルフ界の未来がこの3人の背中に掛かっています。
倉本昌弘 会長は今年、再びブームを巻き起こすような活躍をシニアツアーで演じてくれるでしょう!
日本では、シニアツアーの方が昨今盛り上がりを見せている中でのスーパースターの復活が更に飛躍させると感じます。
タイガー現象は止まる事はありません。
今、ジュニア達をも惹きつけています。
18歳になるプロ志望の息子もタイガータイガーと…「いつからそんな好きになったんだ?」と少々可笑しい感じです。
日本🇯🇵に置いては倉本選手しかいません。
先月ジョージア州のシニアトーナメントで75歳になる有名プレーヤーとラウンドしました。
枯れたゴルフをするかと思いきや1番ホールでいきなりドライバーを置いて行かれました。
化け物のようなプレーヤーがアマチュアに多く存在するアメリカですが…
彼を見て改めて努力を続ければまだまだ未知数の力を発揮出来る事を学ばせて貰いました。
ゴルフの復興にはどうしてもスーパースターは欠かせません。
誰かを待つのではなくて是非、倉本選手に実現して貰いたいですね…
2年前、日本で初のUSシニアツアーが開催されました。
私は友人のGene Sauersの応援で成田CCに出向きました。
そこで見た光景は、往年のスイングと遜色ない倉本選手の姿でした。
驚きのあまり、私はGeneの横から倉本選手の動画を撮りました。
しかし一段下の練習場で打っていたので非常に小さな画像でしたが、今回ズームインしてみました。
このようなスイングを維持出来るのはひとえに普段から柔軟性を保つトレーニングをしているからに他なりません。
昨日、新年のご挨拶を入れた際に、Shoho  Mitamura 先生より「倉本選手はジムでのトレーニングを欠かさず行っている」と、お話しして頂きました。
そしてこうも続けられました。
「実は私も本格的にゴルフに取り組もうと考えています。その為にストレッチングからやり直しているところなんですよ!」と。
シニア世代の底力を今こそ低迷しているゴルフ界に注ぎたいものである。
「ゴルフはいくつになっても上達する!」
それは私自身が身を持って実感している事ですが…残念ながら私の実力ではセンセーショナルな事は起こせない。
今やゴルフ人口はシニア世代が中心。
その世代に夢を与えられることが出来るのは倉本選手しかいない!と私は思うのですが…
そして三田村先生はこうも続けられました。
「今年はプロゴルファーが日本に誕生して100年になるんですよ!」
以下、三田村先生から頂いた資料を皆さんにお届け致します。
一枚の古い写真がある。
いまから94年前、1926年に撮影された写真だ。凛々しい姿でトロフィを抱えているのは、福井覚治というプロゴルファーである。
彼は、38歳という若さでこの世を去ったけれど、この福井が遺した足跡が、日本のプロゴルファーの第1歩なのである。
日本のゴルフの始まりは、1901年、神戸・六甲山にできた4ホールのゴルフコースからだった。六甲山にある三国池の畔に遊びに来た友人たちが、ゴルフ談義始めた。その話を熱心に聞いていたのが、アーサー・グルームだった。時は、明治末期のことである。友人たちが、まるで少年のように語るゴルフ談義が、グルームさんの冒険心と、そして遊び心に火を着けたといってもいいだろう。
「よし、日本でゴルフをしよう」「コースをつくろう」と思いつき、ついに実現させてしまった人物が、英国人のアーサー・ヘスケス・グルーム(1846〜1918)である。彼は、1968年に21歳で来日。以来、神戸に居住して貿易商を営んでいた。狩猟好きな彼が、六甲山に別荘を造って、大自然の風景と生活を満喫し、友人たちを招いてはもてなしていた。ほとんどは自分たちで開墾していたのだ。
 当時の六甲山は岩山で、その岩を掘り起こし雑草を刈り取って最初に4ホールが誕生した。1901年のことだ。それが日本のゴルフ史の始まりだ。2年後、9ホールに拡張し神戸ゴルフ倶楽部が誕生した。日本初のゴルフ倶楽部である。
神戸の街よりも3、4度涼しく、大自然に囲まれ、そこでゴルフプレーができるようになって、一気にゴルフが日本に広がっていくのである。当初は、そのほとんどは外国商人が中心だった。
 神戸開港と同時に、1869年に神戸外国倶楽部(KOBE CLUB)。そして翌年には神戸レガッタ・アンド・アスレチック倶楽部(KRAC)があった。グルームさんも、もちろん共に設立委員の一人だった。
 KRACはレガッタと競走を中心に射撃、フェンシング、さらにはクリケット、ラグビー、サッカーと様々なスポーツに興じるメンバーたちがいた。これが日本初のスポーツ倶楽部である。
 その後、六甲山は、冬場には雪が積もり寒いことから、灘区の海辺近い魚崎町横屋にコースを作ったのは、3年後の1904年。横屋ゴルフ・アソシエーションである。そして1906年には、ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション(横浜・根岸)、さらに雲仙ゴルフコース(長崎・雲仙)と日本のゴルフコースは広がっていった。
その横屋のコースの北西に隣接していたのが、福井の実家だった。父・藤太郎は、農家を営んでいた。コース建設を手伝い、クラブハウス代わりに利用していた。次男の覚治少年は、六甲の会員で横屋を独力で作ろうとしていたウイリアム・ロビンソンに可愛がられ、その後、ほぼ専属キャディとなった。ゴルフの手ほどきは、ロビンソンからで、覚治が成長するにつれて、語学も覚え、後にできる舞子(現・垂水)ゴルフや、鳴尾ゴルフ倶楽部などの用地探しも手伝っていたという。
1920年に舞子(現・垂水)ゴルフ倶楽部ができたときに、福井は、プロゴルファー第1号として採用されたのである。
その弟子に宮本留吉や戸田藤一郎がいた。福井には2人の息子がいた。その息子のひとり福井康雄は、倉本昌弘の師匠でもある。
2020年は、東京五輪が開催されゴルフもその競技のひとつになっているけれど、ゴルフ界にとっては、プロゴルファー誕生100年という年でもある。
福井覚治からはじまり、弟子の宮本留吉や戸田藤一郎。その9年後には、宮本留吉と安田幸吉が、日本人プロゴルファー初の海外遠征でハワイアン・オープの出場。さらに1936年には、戸田藤一郎と陳清水がマスターズ初出場している。実は、その前年、第2回マスターズに、3人の日本人プロゴルファーが、招待されていた。浅見緑蔵、宮本留吉、中村兼吉だった。しかし、その通知がきたのが2月末。すでに3人が日米対抗のために4月上旬に横浜を出港と決めていて、4月3日からのマスターズに間に合わないと辞退したいきさつがあった。当時の海外旅行は船旅で、急遽の変更が難しかったのだ。
連綿と続く日本のプロゴルファーの歴史の始祖である福井覚治の存在をもう一度噛みしめるときであると思う。
創世期のゴルフ場に集まってきたキャディたちが、やがてプロゴルファーとなる。さらに、そのプロゴルファーを師と仰ぐ弟子たちが集まる。それが、派閥となって、川奈一門、我孫子一門と呼ばれる徒弟制度の人脈となった。
駒沢の安田幸吉から、浅見緑蔵が程ヶ谷に移り、井上清次らの程ヶ谷一門を作った。小野光一、鈴木源次郎、そして中村寅吉だ。中村は、そこから寅の子会を。そして、安田幸吉の弟子、山本増次郎から林由郎と我孫子一門を。川奈一門は、安田から内田義男、そして石井茂らだった。
関西の六甲の福井覚治の弟子・中上数一が程ヶ谷から霞ヶ関へ行き霞ヶ関一門。
宮本留吉は上田悌造を弟子にして茨木一門。宮本省三、杉原輝雄らを輩出する。
柏木健一は、戸田藤一郎らと廣野一門という風に人脈と技の秘伝?が継承されていった。
寅の子会は、やがて安田春雄、樋口久子を生み、我孫子は、青木功が生まれた。程ヶ谷は河野高明を。そして、川奈は、杉本英世を生んだ。
時代の流れで瞬く間にプロゴルファーが増え続けた。いまでは5000人を超える。
けれども、いま問われているのは、プロゴルファーの資質でもある。福井覚治の凛々しい姿を見るにつれ、一般ゴルファーに寄り添い、社会性を高め、もっとプロ意識を携えたプロゴルファーが、増えて欲しいと思う。
プロゴルファー誕生100年。それは、これから100年先の日本のプロゴルファーのあり方をもう一度考える時期でもある。ゴルフ業界は、この100年という契機に、何かをアピールするべき、と思う。

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